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オタ活用。

苦いコーヒーと灯し火。

街並みを華やかに彩る商店や露店の立ち並ぶメインストリート。商店街のなかでも比較的落ち着いた雰囲気の一角のカフェで、ゼパルとディディエは遅い昼食をとっていた。
“花の国”フェンディル王国の首都ディルクール。芸術に栄える都市は街角も賑やかで、道ゆく住民や観光客たちはみなどこか洗練された風体に見える。古くは魔法文化に栄えたとあって魔導書を扱う書店や魔術師向けの装備品店も多く、ディディエはこの街をずいぶん気に入ったようだ。ゼパルは通りがけに見かけた書店に吸い込まれそうになるディディエの手を引っ張って、まずは腹ごしらえだと説き伏せ手近なカフェに引き摺り込まなければならなかった。
竜の印を与えられし者、マーカーズなどと呼ばれて久しい四人組がこの街に滞在して、そろそろ二ヶ月ほどにもなる。四人のうち、ザールはつい先日知り合った小柄で可憐な女性との逢瀬のため、グエンは副業の商売のため不在だ。浮かれた調子で身支度をして軽やかな足取りで部屋を出て行ったザールを、ほかの三人は白けた目をして見送り、ザールがいないのであればとグエンはひとり商店街へと赴いていった。ディルクールに到着した直後からいくつか重たい依頼が続いて、満足に観光もしていなかったからちょうどいいと、使い古した鞄に帳簿を詰め込んで出かけていったのが昼前のこと。
取り残されたゼパルとディディエは昼過ぎまで宿でごろごろして、ゼパルの腹の虫が鳴ったのを合図に、遅めのランチに繰り出してきたところだ。テーブルの上にはつい先ほどまで、ローストビーフと色鮮やかなサラダと、トマトソースとクラッカー、琥珀色に透き通った蜂蜜のかかったマフィン、ベーコンとスクランブルエッグなどの皿が並んでいた。
食後に運ばれてきたのは、乾燥させた花弁とハーブで淹れた冷茶と、ここからはるか南の地域から仕入れられたコーヒー。ゼパルがコーヒーをブラックで飲むことができるようになったのは、ついここ一、二年のあいだのことだ。以前は独特の苦味と酸味にいつまで経っても舌が慣れず、カップの半分以上をミルクで満たしてもらわなければ口にできなかった。なにかの折に、飲んだくれのくせに子ども舌だとグエンに揶揄われてムキになって、もうミルクは入れなくていいとそれこそ子どものような駄々をこねていたのが、ディディエにはつい数日前の出来事のように感じられた。

「ザールってさ、ぜーったい、目、肥えてるよね。誰かさんのせいでさ。だからどの子とも結局、うまくいかないんだよ、かわいそ」

ゼパルが懐から食後の一服を取り出すのをぼんやり眺めながら、腹が満たされたせいで頭のうごきが緩慢になっているのを感じた。眠い、本屋に行きたい、腹が張りすぎて歩きたくない、と思いながら、テーブルの上いっぱいに甘い香りを漂わせている冷茶に口をつける。

「誰かとは誰のことだ」
「言ってもわかんないよ」
「……そうか」

懐から出てきたそれはゼパルの手の中で弄り回されるばかりで、ゼパルも眠そうな顔をしながら悪態をついている。
以前は迷い猫の捜索だの遺跡あさりだのといったケチな仕事ばかり回されていたマーカーズもここ数年で随分名前が売れて、国や街の重役や富裕層といった手合いからのご指名や、ギルドの壁紙には貼り出されない類の仕事を請け負うことが増えた。頭脳労働や交渉ごとや潜入調査などの難易度が上がるのに比例するように前衛の負担も増え、ここのところゼパルの生傷が絶えない。その分だけ懐に入るものも増えたが、ここ最近は、ディディエの有り余る知的好奇心を満たしてくれるような報酬は得られていない。不満があるわけではなかったが、常にそこはかとない倦怠感が頭をもたげていた。

「ザールが女にうつつを抜かすのはいまに始まったことではないだろう。ついこの間も依頼人の女に入れ込んでこじれて、お前と大喧嘩になって……」
「ディー、いつの話してんの?」

それ何年前のことだよと笑いながら言われて、ああまたこのやりとりだと既視感をおぼえる。ここ二ヶ月ほどは財布の中身とパーティの疲労が無駄に膨らんでいくばかりで、こうしてゆっくり食事をする時間も書店に入り浸る時間もなかった。ゼパルの顔をまじまじと見るのも久しぶりのような気がした。
ザールがフラフラとひとり街に繰り出すことを覚えて、なんでもいいから動いていないと落ち着いていられないたちのグエンも、仕事を理由に宿を空けることが多くなった。ゼパルはあいかわらず毎晩のように飲み歩いて、昼間は起きているんだか寝ているんだかわからない顔で呆けている。
冒険者としての依頼をこなしている間は一日中ベッタリで寝食をともにしているせいか、ザールも、グエンも、ゼパルも、どうやらひとりでいる時間を欲しがるようになったらしい。平時だろうが休息日だろうが四六時中顔をつきあわせることがなくなって、ザールとゼパルが、よくわからないことで無駄にいがみあいをすることもなくなった。
頭のなかで考えていたことが勝手に口から出ていたらしく、ゼパルは苦笑いをする。「よくわかってないのはディーだけだよ」と、突き放すような言い方をされるのにも慣れた。事実そのようなのだから仕方がない。そのことに自体に特別な感傷はなかった。

「お前と、ザールは……あっという間に変わってしまう」

友人たちが昼間や夜中になにをしているのか把握できなくなって、ディディエはひとりの時間を持て余すことが増えた。手持ちの本はとっくに読み尽くしてしまっていて、だというのに書店に赴く時間はなく、結論の出ない考え事ばかりが頭のなかを埋め尽くしていく。
エルフとしてはやっと「若輩者」といえる域の入り口に立ったディディエにとって、この世界には、知らないことやわからないことが多すぎた。書名しか聞いたことのない幻の魔導書や、行ったことのない国や遺跡や、聞き馴染みのない言語、名前を知らない花、食べたことのない料理、稀少な鉱物、魔動具。現行のものとは異なる体系の、失われた時代の魔法。まだ見つかっていない真理。世界の理のすべてを知りたい。見たことのないものすべてをこの手にとって眺めたい。知識を、貪るように求めるうちに、傍にいた友人たちの背はいくらか伸びて顔立ちは精悍になり、もう少年だった頃の未熟さやかわいげはどこにも見当たらなくなってしまった。
ザールとゼパルの、出会った頃の姿は、もうおぼろげになりつつある。ほんの10年ほど前のあの頃の彼らは、どんな顔で笑っていただろう。なにに腹を立てて、なにに傷ついていたのだろうか。なにを諦め、どうやって折り合いをつけ、誰に好意を抱いて、どうして今はかたわらに居たり居なかったりするのだろうか。
ずっと傍にいたのに、彼らにかかわるあまりにもたくさんのものごとを、見落としてきてしまった気がする。せめて今この瞬間からでも、片時も目を離さずに、彼らのことだけを見ていたいと思う。笑った顔を、かけてくれた労りと揶揄いとを、彼らの一挙手一投足を、憶えておくために。でも、それでは、まるで……彼らが……ーーー。
それを言葉にしてしまえば、なにもかもが消えてなくなってしまう気がした。これまでのすべてが夢か嘘だったかのように、すべてがひっくり返ってしまって、自分はまたあの小さな家の中で本に埋もれながら目を覚まして、友人たちのことなど綺麗に忘れ去って、何もかもが瞬きをする間に過ぎ去ってしまう。考えていると、唐突に足場が消え失せてどこまでも落下していくような感覚に陥ることがある。胸がつかえて頭が重くなって、いつも途中で考えるのをやめてしまう。
開きたくない扉の前で行ったり来たりを繰り返して、しかし、それを開かないとどこにも行けないこともわかっていた。

「オレは、ディーがいまなに考えてるか、わかるよ」
「何故だ」
「魔法使いだから」

コーヒーカップを傾けながら顔色も変えずに軽口を叩くゼパルを見やる。テーブルの上に並んだ空の皿の片隅に、鮮やかなオレンジ色の野菜が取り残されているのを、ザールなら見咎めて注意するのだろうなと思ったが、なにも言わなかった。
ゼパルは昔からそれほど食が進むわけではなかったし、自覚がないだけで好き嫌いも多かったが、ディディエが手ずから作った食事であればなんでも機嫌良く口にした。ゼパルだけではない、食べ盛りの男が三人もいれば、ディディエの料理は少し目を離した隙に、食べかすも残らず綺麗さっぱり彼らの胃袋におさまった。
だというのに、近頃のゼパルとザールは、あきらかに食事量が減った。ディディエの手料理を残すようなことこそしないが、食事の時間になると判を押したように、やれ腹が減っただの今日の飯はなんだのと喚き散らすことをしなくなった。以前は夕食を食べた直後に、手のひらに乗り切らないほどもある焼き菓子もぺろりと平らげていたというのに。
こちらを見ようとしない、ゼパルの顔をまじまじと眺める。彼が寝台のなかですら纏っていた額のバンダナは、そういえば何年前から身につけなくなったのだろう。敬愛している師から譲り受けたのだと誇らしげに語っていた愛剣が折られたのは、いつの出来事だったか。ザールと衝突して癇癪を起こして、グエンとふたり頭を抱えて、ほとほと手を焼かされたのは。体力がなくいつもいちばんはじめにへばるディディエに歩調をあわせ、笑いかけてくれるのに甘えて、その背に負われたことも数えきれない。自らが流した血の海のなかから回復した彼を、生きていてくれてよかったと掻き抱いたことは、これまでにいったい何度あった?
変わらないものと変わったことを数えるうちに一生が終わってしまいそうだ。人は、意外なほどにはやく生まれかわる。比喩でもなんでもなく、出会った頃の彼を形成していた血や肉は、とっくの昔にこの世界からはいなくなっている。

「ディー、どうしたら笑ってくれる?」

食後の一服に火を灯しながら、穏やかな笑顔を浮かべて目を細める姿に、まるで知らない男と対峙しているようだと思った。何度も口からまろび出そうになっては、ぐっと飲み込む言葉が積み重なって重荷になり、ひとり取り残されることだけを恐れている。
自分をこんなふうにしてしまったのはお前たちなのにと、詮無い恨み言を思いついた。その世迷言のあまりの馬鹿馬鹿しさに自嘲した。
世界の理をいくら恨んだところで、時間が巻き戻るわけもない。巻き戻したいとも思わない。……そのつもりだ。