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オタ活用。

明けないし眠れない夜

乾いた音をたてて爆ぜる焚き火を茫然と眺めていたら、幻聴がしてふと傍を見やった。あとものの数分で完全な夜の闇にのまれるだろう森の木々の合間からは、形容し難く不穏な気配がする。夕闇に包まれた森は静寂に包まれて肌寒く、そういえば、闇の中に亡霊を見紛いやすいといわれている時間帯がちょうど今時分だったはずだと思い至る。
グエンはディディエに、なにごとかを喋ったかと問いかけた。焚き火の明かりに照らされた、こちらはこちらでこの世のものとは思えない美貌があいかわらず生気を欠いているのを確認すれば、案の定返ってくる「なにも」という至極落ち着いた声色だ。ディディエが俯きがちに目をやっている手元では、今日の夕餉が湯気を立てながら出来上がろうとしつつある。いまや各国に名を轟かせる大魔導師ともあろう男が杖を置き、かわりに調理器具を手にとって飯をこさえている姿は、何度見ても滑稽というほかない。ディディエのことを知る人間にこの光景を言い伝えてみたところで、質の低い冗談だと思われるのが関の山だろうなと思った。

ディディエとグエンがふたり旅に出発して、そろそろ三ヶ月ほどが経つ。
目的地は魔法文明デュランディル時代のものとされる遺跡だ。そこは古の時代に名を馳せたとある魔術師の研究施設だったという。失われた魔法文明時代の知見を求めて、本当に実在するのかもわからない遺跡ーーディディエはその遺跡の地図を手に入れるために大枚を叩いたらしいがーーを見つけ出し、探索するために、グエンは旅の護衛を任された。任されたといっても拒否権などはなきに等しい状況で、突如として来訪した昔馴染みに、挨拶もなしに首根っこを掴まれて引き摺られるようにして旅立って、三日目までは気を抜くと愚痴か恨み言かため息が口をついて出た。
まるで昼夜の概念など存在しないかのような顔で一日中歩き通そうとするディディエに対して、お前と違って夜目は効かないし半日も歩けば疲労で動けないのだから、頼むから野営をさせてくれと懇願したらひどく迷惑そうな顔をされて、理不尽さに頭痛がした。ディディエとはここ数年ほど顔を合わせていなかったが、「人は毎日きちんと休息をとらなければ満足に活動することができない」という年端のいかない子どもでもわかりきったことを失念するほどに耄碌していたとは思わなかった。そして、よくよく思い返してみれば、二人がたった二人だけでこれほどの長旅をするのは、はじめての経験だった。

安全なキャンプ地を確保して慣れた手つきでテントを張れば、ディディエはなにも言わずとも食事の準備を始める。グエンは道中の食事は粗末な携帯食糧をかじるだけでも一向に構わないと思っていたし、ひとりで長旅をするときには実際にそうしていたのだが、ディディエはどこか強迫観念にでも駆られているかのように一日に一度はかならず火を通した食事を作った。
食材はその辺に生えているキノコや木の実やハーブの類だったり、道中で捕らえた小動物だったり保存食だったりしてそれなりに荷物も嵩張ったし、そんなふうに野営のたびに食事をこしらえるのは面倒ではないかと一応の気を遣ってみれば、どうせ焚き火をおこすのだったらもののついでだと無愛想かつ端的な返答だった。そうして短くない時間を割いて黙々と食事の支度をするディディエは、まるで血の通った真っ当な人間のように見えた。
しかし、初日に出てきた鍋はグエンがおかわりをしてもまだ食べきれないほどの量があり、「たったふたりでこんなに食べられるかよ」と苦笑いをしたら、ディディエは「そうか」とちいさく相槌を打つのみだった。そしてそのあと小一時間ほど黙り込んでしまった。その次に出てきたものは量は適切だったがひどく塩辛くて、その次にはほとんど味がしなかった。

今晩は深い森の奥地の、清らかな小川の流れの側にテントを張った。グエンは食事を終えて後片付けをし、軽く沐浴でもしてから寝支度にかかろうと腕に身につけていた装備を外して、その内側に、おびただしい量の血が付着していることに気がついた。
昼間、一帯を餌場としていた飢えたウルフの群れに襲われ、多勢をさばききれずに牙による攻撃を一度だけ負ってしまったことを思い出した。忘れているほうがどうかしていると思うのだが、広範囲の魔法を使って森林ごと一網打尽にしようとするディディエを制し、背に庇いながら拳をふるっているといつもと勝手が違って、とにかくその場を凌がなければと気が動転していたのだ。どうということもない軽傷だったし毒をもった様子もなかったので、処置を後まわしにしているうちに痛みに慣れてしまった。
赤黒く凝固した血がべったりと広がっている利き腕を目の当たりにすると鈍痛がぶり返してきて、眉を顰めながら患部を川の流れに浸す。固まってこびりついた血はすぐに清水に洗い流されて、抉られ肉の削げた腕の傷が露わになった。

「回復する。腕を見せろ」

ディディエも、眉根を寄せて痛みに耐えながら天幕まで戻ってきたグエンを見てようやく腕の負傷を思い出した様子で、しかしいつも通りの無表情で杖を握り直した。無碍に扱われているのだか気を遣われているのだかよくわからない、と思いながら、向けられた杖の先をやんわりと拒絶する。

「薬を使って休めばどうってことないって。なにがあるかわからないんだから、魔力は温存しといてくれ」

朗らかに笑いながらではありつつも有無を言わせようとしないグエンの態度に、ディディエは両手に抱えた杖の行き場をなくして立ち尽くした。
ここまでの道中で何度かディディエの回復魔法には世話になったが、傷の塞がったあとの箇所が引き攣れて、痒くて掻きむしらずにはいられないような感覚が、どうにも心地悪かった。まだ痛いほうがいくらかマシなほどだ。
適当な言い訳を並べて、自分の荷物袋の中からポーションの瓶を取り出す。

ポーションは使いすぎると癖になるぞ」

ディディエがやはり一切の感情を覗かせないまま、精製してあるだけ効果は高いがなと忠告してくるのに、そういうものかと手の中の薬瓶を眺める。
硝子に満たされた得体の知れない液体に命を救われたことは数えきれないが、薬に頼らなければならないほどの怪我をしたのは久しぶりだ。ここ数十年はひとり旅が長く、そもそも戦闘になることも稀だった。厄介ごとからは基本的に逃げ回っていたし、他人と共闘するようなこともなければ、背に庇わなければならない人間もいなかった。
単独行動中に万が一にも深手を負えば、薬での回復は魔法に比べて費用対効果の面ではるかに劣る。拳をふるってでも手に入れたいものや守りたいものももはや存在しないグエンのような人間にとっては、無駄な争いは徹底的に避けるのが最も賢明な判断だった。自然、できるだけ手負いのないように立ち回る術ばかりが磨かれていき、逃げ足ばかりが速くなった。

「昔、ゼパルも薬を抜くのに苦労していた」

ディディエがそう言うのに対して、あの男のそんな様子は見かけたことがなかったので、その”昔”というのはきっと、グエンが彼らに出会うよりも以前の出来事なのだろうなと察した。グエンにとってそれは気が遠くなるほどの記憶の彼方にあったため、ディディエがなんでもないことのようにこぼした”昔”という響きには、背筋に怖気が走るほどの薄気味悪さを感じた。
天幕の外側に広がっている宵闇に潜むなにかよりも、目の前にいる生者の方がよほどおぞましい。そして、記憶の中にいる、もはや姿形もおぼろげな人々は、誰も彼もが清廉だった。不自然に永く生きすぎたせいだろうか、グエンには、ディディエの精彩を欠いた路傍の石のような瞳がひどく好ましくて、もうこの世にはいない者の名前を平然と吐き出す唇が不愉快だった。

ーー『ザールの魔法、きもちい』

日向にいすぎたせいで溶けた猫のような顔をして傷の手当てをされていたゼパルに対して、こと魔法に関しては負けられないとでも思ったのか、ディディエは携えた杖を誇示するような構えをしていた。

『俺だって回復魔法くらい使える』

鼻息荒く杖を振るーー回復しているというより、殴打していると形容したほうがいくらか似つかわしい動きだーーディディエの施しを受けた経験のあるグエンとゼパルは顔を見合わせて、ああうんわかってるとか、そうだねとか、なんとも煮え切らない相槌のようなものを口ごもらせていた。揃って苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる彼らに思わず吹き出して、太陽のような朗らかさで笑っていたザールが死んだとき、グエンはもう彼らとは遠く離れた地で暮らしていた。グエンにとっての彼らは、これまで出会ってきた何百人もの友人や知人のうちのひとり、ふたりでしかなかった。
グエンも、彼らのことを仲間として信頼していたし、好きだった。かけがえのない友人を失って、本当はいまでもずっと、自分の体に穴でも空いたかのような喪失感を抱えたままでいる。グエンだって、ザールには心身ともに何度も救われたし、ゼパルのことはできの悪い弟みたいに可愛かった。
けれど、思い出に執着するわけにはいかなかった。そんなことをすれば、自分はもう、それなしでは立っていられなくなるような気がした。ディディエのように。
魔法都市クロメアに30年、交易都市ウェアラトに15年、エルフの里ル=リトムルには10年滞在していたディディエが、魔導の塔に研究室をもち引きこもっていたときは20年以上会わなかった。クロメア王立魔導院や宮廷、魔法学園、はたまた住み慣れた街の魔術師ギルドに至るまで、あらゆる組織がディディエの魔法の知識と技術とを、喉から手が出るほど欲している。
鼻で笑ってやりたかった。彼はもう、ただ息をしているだけの亡者だ。

また濁った湖面のような目をして両手に持った杖を凝視するだけの置物のようになられても困る。グエンはひとつ嘆息すると、ディディエの細い体を抱きかかえて、天幕の敷布の上に共倒れに横になった。はずみで、からんと高い音をたてて杖が転げたが、ディディエはそれに目をやることもなく、糸の切れた人形のようにされるがままに身を預けてくる。
何十年経っても、縦はまだしも横方向には微塵も伸びた気配のない小柄な体は、すこし肩を抱き寄せるだけで簡単に、腕の中にすっぽりと収まってしまう。各国の首長たちが涎を垂らして欲しがっている小賢しい頭を、冒険者の宿の備え付けの枕かなにかのように手荒に抱きしめると、ふわふわとした癖毛が鼻先や頬に触れてくすぐったい。
抵抗する様子もなくグエンの腕の中に収まっているディディエが「暑苦しい」と訴えかけてくるのを黙殺して、そう広くはない天幕の中、恐ろしいなにかから身を隠すようにして身を寄せ合った。まるでこの世界でこの天幕の中だけが唯一安全な場所であるかのような錯覚をしそうになる。

「暑い、か苦しい、か、どっちかにしような……うわ、おまえまた痩せた?ガリガリじゃねえか。ちゃんと食ってちゃんと寝て……、……は、なさそうな」
「ちゃんと食ってちゃんと寝ている」
「ウソつけ。あーあ、髪もボサボサじゃねえか。朝起きたら、綺麗に解いてやるからな」
「必要ない」
「うんうん、そうだなー、せっかく川もあるし、ちゃんと水にも浸かって、洗濯もしような」

強引に腕を引いたせいで着崩れてしまったディディエの外套を手繰り寄せて、寝ているあいだに凍えないようにとしっかり巻きつけて抱きしめなおすと、自分よりも相手の体温のほうがいくらか高いことに気がついた。いつ見ても生気のない顔をしているわりにまるで湯たんぽのように温かく、抱き心地がよくて眠くなる。
鼻先にあるディディエの髪からは、草木と土の匂いがした。一応沐浴はしたものの、もしかしたら自分のほうが汗や獣の返り血の匂いが強いかもしれないと思い怯んだが、薄闇の中でかろうじて目視できる表情が先程よりもいくらか凪いでいる様子が見てとれたので、気にしないことにした。

水底に眠っている記憶を呼び起こそうとして、何かが邪魔をして気が散って仕方なく、それが果たせないような感覚に陥ることが何度もあった。ディディエの料理はこんなに塩辛かっただろうかとか、食事の時間というものはこんなにも静かなものだっただろうかとか、回復魔法はこんなにもむず痒かっただろうかとか、夜の闇はこんなにも、えもいわれぬ不安を掻き立てるものだっただろうか、とか。なにか大事なことを忘れたままのような気がするし、そのまま跡形もなく忘れ去ったところでなにが変わるわけでもないような気もする。
もはや生きる理由も死ぬ理由もないまま、どこへ向かって歩いているのかもわからず、時間だけが自分を通り過ぎていく。目に映るものはなにもかもがありふれていてあまりにも膨大で、心から嘆きたいこともなければ、身を削ってまで手に入れたいものもない。悲願も、契約も、古傷も、夢も、秘密も、遺志も、もうなにもかもが他人事だった。今更、腕を切れば血が流れることや、放っておけば傷がふさがることすら不思議だったし、どうだってよかった。

「たまには俺のことも見てくれよ、ディディエ」
「……見ている。……グエン」
「ん?」
「ついてきてくれて、ありがとう」

ではどうしてと聞かれたら、答えに窮する。眠れもしないくせに抱き枕にされて律儀にじっとしているディディエのことが不憫で見捨てられないからかもしれないし、ひとりで眠るのが発狂しそうに寂しいからかもしれない。記憶の水底をさらえば忘れたはずの約束を思い出せるのかもしれないが、固く閉じた蓋を開けるのを恐れ、死ぬまで目を背けていたいだけのような気もする。
寝入り端にまた、幻聴がした。誰の声だか知らないが、そんなに悔しかったら化けてでも出てくればいいのだ。そのほうが……きっとディディエも喜ぶだろう。