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オタ活用。

素面で踊る(💚💜)

あれは何年前のことだっただろうか。スラムの片隅に、小さなステージが併設された酒場があった。マスターの男はとある盗賊ギルドの顔役を務めるかたわら、そのこぢんまりとした酒場を細々と経営していた。来る客といえばスラムの飲んだくれか薄汚い盗賊か、ガラが悪ければ扱う商材もきな臭い不良商人か、そんな男たちに花を売る娼婦かと決まっていた。
小さなステージは、そんな娼婦たちが自らを売り込むために、舞を披露する場になっていた。ごく稀に旅の楽団や吟遊詩人が訪れて楽器を奏でることもあったが、その腕の巧拙を聴き分けられるほどの繊細な耳を持った客はいなかった。だから、そのステージに立つ踊り子たちは、下っ端盗賊の素人同然のリュートの音色にあわせて、これも「思わず見惚れる」とはお世辞にも言えない舞を踊るのが常だった。芸は男の劣情を煽る手練手管のひとつでしかなく、それ以上のもの(そして、それ以下のもの)を期待する客などひとりもいなかったのである。
ゼパルは一時期その酒場で、酒や食材の配達をしたり、客が食べ散らかした食器を片付けたりといった雑事をこなす下働きとして働いていた。もちろんゼパルにとっても舞踊や楽器の良し悪しなどはわかるはずもなく、踊り子というものは毎晩飽きもせずにステージに上がっては客席に向かってシナをつくり、足元に投げられた小銭を拾って、男たちに酌をしては引きずられるようにして店を出ていく、よくわからない生き物だと認識していた。その頃のゼパルにとっては世の中の大人たちの大概がよくわからない生き物だったので、深く気にしたこともなかった。

だが、そんな中で、際立って異質な存在がただひとりだけいたことを記憶している。
その女も娼婦だったに違いない。身に纏っている衣服は、道端で客引きをしている女たちとそう変わらない、肌が透けて見えそうなほどに薄く粗末な布切れだ。神話のなかの登場人物が纏う羽衣にも似たそれは、彼女が身を翻すのにあわせてひらひらと波打ち、膨らんでは萎れて、細い足にまとわりついていた。
舞踊の良し悪しなどわからなくても、その舞には、視界から容易くは追いやれない、不思議な引力があった。劣情を煽られるかと言われればむしろその逆で、躍動する四肢の動きは広場を駆け回る少年のようにあまりにも健康的だ。それでいて、彼女の流し目には、見つめた相手の頭の中を空洞にして中毒にさせる、魔性の力があった。表情はどこか聖人じみていながらも、痛々しいほどに痩せた姿態には、理性のかけらもないスラムの野良犬の姿も重なる。
とにかく異様で、他の娼婦たちとはあまりにも異質で、その場にいた誰もが彼女の踊りに釘付けに違いないとふと周りを見渡してみれば、男たちは誰ひとりとしてステージのほうを見てはいなかった。呆然としてもう一度彼女のほうを見やれば、まるで苦笑いをするかのような鮮やかなターンを最後に、リュートの音が鳴り止んだ。

ゼパルは仕事を終えたあと、どこに帰るというわけもなく、その娼婦の身のこなしを思い起こしながら、月明かりの下をフラフラと彷徨っていた。
その日、ステージを終えて客席につき、自棄酒を煽る彼女に、ひどく絡まれた。商売上がったりだ、安くするからお前が客になれなどと散々クダをまかれながら少しだけ安酒に付き合ったら、先ほどまではまるで別の大陸からやってきた新種の魔物のように感じられていた女性は、自分よりいくらか年嵩なだけの少女であったことがわかった。

「あなたのためだけに踊ってくれる女の子が、いつか見つかるといいわね」

あらもちろん、あなた自身が踊るのもありよ。なんの話の流れだったか、そう言った彼女の子供のような笑い声が忘れられない。信仰かあるいは呪術にも似た振り付けは今ではすっかり忘れてしまったが、そのとき授けられた言葉はまじないのように、あるいは呪いのように、ゼパルの記憶の片隅に刻まれたままだった。
踊り子の迷いのないステップと翻るスカートとを思い出しながら、くるりとひとつターンをする。踊りは、汚泥のような夜の闇に包まれた路地裏の物陰に潜むなにかから、自分を守ってくれる魔法のようだと思った。それさえあれば、次の朝など来なくとも、ひとりきりでいられるような気さえしたのだ。


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窓の外は土砂降りの雨で、一行は仮宿に帰るタイミングを完全に見失った。旅先での依頼を終えて、ニーヴロックの街に帰還する前に、一晩くらい飲み明かさないかと提案したのは誰だったか。水瓶をひっくり返したような雨音が絶えず酒場の店内に響いていて、宿に帰れないんじゃ仕方がないと一杯、また一杯と、空瓶が立ち並んでいく。
いちばん最初に潰れたのはやはりザールで、机に突っ伏しながらむにゃむにゃと寝言とも世迷言ともつかないなにごとかを話し続けているものの、ひとつとして聞き取ることができない。右手にはまだ半分ほど中身の残った杯の取っ手を握り込んだままだ。なにかの拍子に取り落として中身をひっくり返してはいけないので、そっとその手を外させて、残った酒はありがたく飲み干させてもらう。
グエンはなにかを懸念している様子で、いつかの飲み会のときのようにむやみやたらと杯を重ねようとはしない。おおかた、天候が気になるのだろう。店の外がどんな土砂降りに見舞われていようと、閉店の時間を過ぎれば強制的にその最中に追い出されてしまうのだ。あまりに深酒をすればどうなるかと予想をするくらい、この比類なき才を有する元商人にとっては造作もないことだ。
ディディエのほうに目を向けると、ゼパルには欠片も内容を理解することができない小難しい持論をぶつぶつと垂れ流しながら、ついに上半身に身に纏った最後の一枚を脱ぎ捨てたところだった。こうなればそろそろ打ち止めである。声色や表情は平素となにも変わらない様子でありながらも、周囲には彼が脱ぎ散らかした服が輪を描いて散乱している。あらわになった細い肩がすこし赤らんでいるのをなんとなく直視することができず、ゼパルは無意識に視線を逸らした。

「おまえなあ……風邪ひいても知らないからな」
「ふたりともベロベロだね。雨、やみそうもないし、グエンはまだ飲めるよな〜?」
「……は、当然」

平時は自制心が服を着て歩いているようなグエンも、ゼパルが雑に煽れば二回に一度くらいは乗ってくるようになった。ゼパルはグエンの負けや逃げをいとわない性分が好ましかったし気が合うと思っていたが、だからこそか、彼とくだらないことで競い合いをするのも気に入っていた。もしくはこう見えて、彼もほどほどに酔ってきて理性の箍が外れかかっているのかもしれない。
ゼパルは、人が酔っ払っているのを見るのが好きだった。正確に言えば、人がというより、この仲間たちが酔っ払っているところを見るのが好きだった。なんとなく、彼らの隠していた本性みたいなものの一端を垣間見ている気がする。
しかし、その点では、やはりこのグエンは食えない男だ。なにがあっても全てを曝け出すようなことは絶対にしないだろうという、信頼にも似た確信がある。それでもいつかは、興味本位に腹のうちを暴いてみたいと思う程度には、ゼパルはすっかりこの男が傍らにいるのに慣れていた。
こんなものでは全く飲み足りない。ゼパルは席を立った。

「つまみは?」
「肉、あとなんか適当にチーズがあれば」
「おっけー」

店の奥のカウンターに赴いて、追加の酒と乾燥肉などを注文する。このあたりの酒場や食事処は、カウンターで代金を差し出すと、引き換えに酒や料理が提供されるスタイルが主流のようだった。
そういえば、グエンがパーティに加入してから、宿代などパーティ全体で金を出しあうような出費に関しては、あらかじめ専用の財布を用意してそこから支払いをする、という画期的なシステムが導入された。メンバーが各々定期的にまとまった金を放り込んでおけばグエンがきっちり金勘定をしてくれるので、宿に泊まったり食事をする都度、こまごまとした代金を財布から取り出す必要がない。誰かが立て替えた金を逐一覚えておく必要もなければ、ど忘れをする心配もない。
とはいえここはグエンを付き合わせるのだからと、ゼパルは自分の財布から酒代を出そうと思い、カウンターの前で懐をごそごそと探った。が、いつも財布を忍ばせている定位置に、目当てのものが見当たらない。まさか宿に置きっぱなしかと回想して、確かに、部屋に着くなりベッドの上に放り投げた荷物の中から、財布を取り出した記憶がひとつもないことに思い至った。
いくらなんでも管理が杜撰すぎる。グエンが仲間になってからこっち、こういう仕様もない失態が増えた。冒険者になる以前の自分だったら考えられないことだ。空き巣を狙われてもなんの文句も言えない。しかし今更テーブルにとんぼ返りをしてグエンに頭を下げるのも癪だ……などと苦い顔をしていたら、横から、つい、と、白い手が伸びて、店主の前に金が置かれた。

「おお?なんだ、リラ。珍しいこともあるもんだな」

店主は目を丸くしながら金を回収し、ふたり分の酒とつまみをカウンターの上に置く。そして、ふたつ置かれたエールの杯のうちのひとつを、彼女はなんの躊躇いもなく、自分の手元に引き寄せた。
カウンター席にいたのは、青みがかった黒髪をひとつに結えた、華奢な女性だった。白い左の二の腕には、小さな花のような刺青が入っている。反射的にその顔をじっと見れば、片目を隠すほど長い前髪の間から、にこりと微笑まれた。

「君たち、面白い飲み方してるね。あの少年、風邪ひいちゃわない?」

ちらりと流し目をした先にいるのは、あいかわらずほとんどまっ裸の状態で、グエンに向かってなにごとかを切々と説いているディディエの姿だ。裸なのもそうだが、ほんのりと赤く染まった長い耳が、こうして傍目からみるとひどく目立つ。エルフであることが一目瞭然なのを考慮したとしても、顔つきや背格好があまりに若々しすぎて、とても成人しているようには見えないのだろう。
ゼパルは、ああと納得して、なぜだか、弁解しなければという気持ちになった。

「大丈夫、ああ見えておとなだから」
「大人の飲み方には見えないね」
「悪い、金がないわけじゃないんだ。すぐ返す」
「いらない。こんな雨だもん、ゆっくり飲んでいきなよ」

ねえマスター、と笑いかける彼女の横顔と、店主の苦笑いに、しまった、と思った。
カウンター席に座っている客は彼女ひとりだ。この雨のせいか、店内のテーブル席には客はまばらだったが、ひとりで飲んでいる男性客が数人いる。自分たちは明らかに悪目立ちをしていて、しかも、何人かの男性客たちは、ちらちらと横目で彼女の動向を伺っているのが見てとれた。

「座らないの?」
「……見ればわかるだろ、連れがいる」
「一杯ぐらい、許してくれるでしょ」

そう言うが、店主の態度を見る限り、一杯ですませる気はなさそうだ。こちらの困惑に構うことなくエールを口にする横顔に、思わず眉を顰める。仲間たちのいるテーブルに目をやれば、グエンはこちらの様子に気づく気配もなく、ザールの寝言とディディエの御高説とにまともにとりあわないことに注力しているようだった。
連れ込み宿には見えなかったが、どうやら彼女はここで客引きをしているらしい。それとも、今日の仕事は終わった後か。おおかた二階が客室かなにかになっているのだろう。土地勘のない街で行きずりの店に入ると、たまにこういうこともある。
なんと言って切り抜けようか。べつに、多少の無礼をはたらいたところで、明日には離れる街だ。あきらかに隙をみせたこちらが悪いのだが、この場で立てなければならない義理や体面などなにひとつとしてありはしない。だが、相手はいかにも手強そうで、どちらかというと口下手なゼパルがまともに太刀打ちできるような気がしない。
それとも、もう断るのも面倒だから、いっそ誘いにのってしまうか。であれば、仲間たちにどう説明しようか。
ひとりだったら、まちがいなくのっていただろうなと思った。むしろ、これ幸いとばかりに金がないふりをして、屋根と壁とあたたかいベッドのあるところで健やかに眠れたにちがいない。心優しい女性に出会えて幸運だったとすら思っただろう。

ゼパルには、こんな場面でいつも思い出す、記憶の奥底にこびりついた台詞があった。
『あなたのためだけに踊ってくれる女の子が、いつか見つかるといいわね』
もしかしたら、彼女が自分のためだけに舞ってくれる子なのだろうか。そんなものが本当に、この世に存在するのだろうか。こういった気を向けられるといつも思い返すのは、もはや顔も忘れた少女が遠い記憶の中で囁いた台詞だ。
それともやはり、自分が踊るほうが手っ取り早いのだろうか。想起したイメージのあまりのうすら寒さに、失笑がこぼれる。

「おいゼパル、なに油売ってるんだ」

思案しているうちにもうなにもかもが面倒になってきた頃合いで、助け舟がやってきた。

「雨が止んだみたいだ。そろそろ宿に戻るぞ、お前がザールを運んでくれよ。俺はあの露出狂にマントひっ被せて縄で縛っとくか……ら」

なぜか、”すまき”という謎の文字列が頭に浮かんだ。いったいどこで聞いた言葉だろうか。
グエンは「縛っとくから」と口にしたあたりで、ゼパルとその隣にいる女性との間に流れている、妙な空気に気づいたらしい。
グエンと目が合うと、女性は途端に全ての興味を失った様子で目を逸らし、再び手元のエールに口をつけた。

「金が」

ゼパルがバツが悪そうに一言呟けば、それだけで全てを察したらしい。彼は一瞬だけ、僅かに目を細めて、瞬きをする間にもとの表情に戻った。呆れと諦めの表情だった。
グエンは懐から財布(パーティ用のほうではない財布だった。ゼパルは、宿に帰ったあとでなにを言われるのか、気が重くなった)を取り出して、適当な額の金を彼女の傍に置く。

「帰るぞ」

グエンはもう、彼女のほうを一瞥もすることなく、ゼパルの腕を掴んで踵を返した。彼女のほうももうこちらを見ることなく、手の甲を払うようにしてひらひらと振る。「失せろ」のジェスチャーである。
テーブルの周囲に散らかっていた服をかき集めて、宣言通りマントをディディエの頭から覆い被せる。

「なにをする。まだ話が途中だ」
「はいはい、続きは宿に帰ってからな。おまえ、まっすぐ歩ける?」
「歩けると思うのか。なにも見えない」
「了解。じゃあゼパルくん、あとはよろしく」

あ、怒ってるな、と思った。宿までは結構な距離がある。雨が上がったといっても、眠っているザールと歩く気のないディディエの両方を、ひとりで抱えていくのは困難である。というか、不可能だ。

「ザール!起きて!ザール!!」

しかし、呼べど叩けど、ザールが起きることはなかった。


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まだなにごとかをむにゃむにゃと口ごもりながら背にしがみついてくるザールを引っぺがし、どさりとベッドに下ろすと、腹の底から湧き出てくるような大きなため息がこぼれ落ちた。
結局、ふたりを両脇に抱えてくるのは不可能だったので、嫌がるディディエになんとか服を着せマントを羽織らせて、自力で歩いてもらって無事、宿へと帰還した。ディディエの足取りはまさに千鳥足といった様子で右へ左へと蛇行し、今にも躓いてぬかるみに頭から突っ込みそうだった。ゼパルはザールを背負いつつ、ディディエの手も引いて誘導しながら、雨上がりの帰路を汗だくになりながら辿ったのだった。

「ねむい……」

ディディエは道半ばから既に半分以上眠っているような状態で、部屋に入るなりベッドに倒れ込んでしまった。ザールにしろディディエにしろ、一日分の汚れを身に纏ったまま、風呂にも入らずに眠ってしまうのはめずらしい。いくらなんでも飲ませすぎたかもしれない。つまりは自業自得ということで、それはゼパルにも納得ができる。

「お疲れのところ悪いけど、ゼパルはこっちな」

ザールが重い、助けてくれ、せめてディディエの手を引いてくれとどれだけ懇願しても聞く耳を持たず、酒気など感じさせない軽やかな足取りで先を行ってしまったグエンは、ゼパルの恨めしげな眼差しなどどこ吹く風だ。ザールとディディエが健やかに眠っていることを確認すると、親指で扉を指差し、スタスタと部屋を出て行ってしまった。
こんな夜更けにどこへ行くつもりだろうか。鉛のように重い手足に鞭を打ってあとをついていくと、グエンの姿は廊下の奥、少し離れた部屋の扉の前にあった。

「え?なに?金払ってない部屋に勝手に入っちゃダメなんだよ」
「部屋代ならもう払った」

グエンの端的な返答に、ゼパルの顔からサッと血の気が引いた。
血相を変えたゼパルには頓着せず、グエンは懐から部屋の鍵を取り出し、扉を開けて、力任せに中へ連れ込もうとしてくる。あわてて踏み止まろうとするものの、近ごろめきめきと筋力をつけはじめたグエンによって音が立つのではないかと思うほど強く腕を握り込まれ、抵抗もむなしく暗い部屋の中に引き摺り込まれた。

「グエン、酔ってるの?それとも怒ってる?」
「べつに、どっちでもない。そんなに溜まってるんだったら処理してやろうと思って」
「そういうんじゃない!絡まれただけだって!」

ゼパルの動揺も必死の釈明も、意に介した様子はない。グエンの顔には笑顔すら浮かんでいた。
グエンと、ほかの仲間のふたりとの決定的なちがいは、顔が笑っていたり怒っていたりするからといって、内心ではなにを考えているのかわからないときがあるということだ。他人の心の機微にすこぶる疎いゼパルは、そういうふうに態度を誤魔化されるともうどう立ち回ったらいいのかわからなくなって、迷子のような心持ちになる。ザールとディディエはよくも悪くもわかりやすい。だから安心できたが、グエンはそうではなかった。

「嘘。酔ってるし怒ってるよ」

バタンと剣呑な音を立てて閉じた扉の前に立ちはだかるようにもたれかかり、薄く笑っているグエンのことも、得体のしれない魔物の化身のように見えた。ほんもののグエンはこの宿に戻る途中でかどわかされ、魔性の存在と入れ替わったのだと言われたほうが、どんなに得心がいったか知れない。後ろ手で部屋の鍵を閉めたらしい、がちりと錠が噛み合う音が、暗い室内に響く。
暗闇で迫ってくるグエンの端正な顔立ちを、つい、まじまじと眺めては深く感じ入ってしまう。ゼパルはどうやら自分が、整った顔をしている人間に弱いらしいということを、ごく最近になって自覚した。ディディエやグエンの顔をじっと見ていると、もとより希薄な自らの意思というものがすっかり剥がれ落ちてなにもかも言われるがままになってしまうし、後先のことなどをひとつも考えられなくなってしまう。
グエンの猫のような切れ長の目をぼんやりと眺めていると、この道中でずっと考えていたことが、勝手に口からまろび出た。

「さっきの人、グエンにちょっと似てた」
「……」

思ったことをそのまま口に出せば、妖しく微笑んでいたグエンの表情が瞬く間に失われた。口に出したあとで、ああどうやら自分はまたなにかを間違えたと悟る。
重なった唇からはやはり、酒の匂いなどほとんどしなかった。酒に酔っていないのだとしたら、この行為をいったいなんの所為にするつもりなのだろうか。舌を嬲られ耳の後ろが泡立つような快感に思考を奪われて、ゼパルは本当にもう何もかもが面倒だと思った。建前も配慮もかなぐり捨てれば、ようやく元通りの自分にもどれる気がした。
踊り子がいま、誰のために舞っていようと、そんなことはもうどうだっていい、と思えた。


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ベッドが軋む音と、肌と肌がぶつかる間抜けに乾いた音とが壁に反響して、居た堪れないような気持ちになる。グエンのもらす声は腕の中に抱えた枕に染み込んでいくばかりで、水の中にいるようにくぐもっている。うつ伏せになった顔を枕に押し付けて声を殺しながら、白い背を震わせて快感に耐えている姿は、柄にもなくいじらしくてかわいらしいと思った。
グエンのゆったりとした下衣を膝まで下ろしてしまえば、自然と、腹から腰のあたりの広範囲に広がっている痣に目がいく。誰よりも頭がいいはずのグエンは、なぜだかいつまで経っても、ゼパルが夜目がきいて、暗闇のなかでもグエンの痴態を余すことなく眺めることができるという事実をおぼえない。グエンはどうもこの痣を人に見られるのを嫌っているらしいのだが、月明かりもない闇の中では油断をするのだろう、青白い肌を這うように侵食する痣の存在を隠すのを忘れてしまうようだ。
ゼパルはそれを見たところでなにも感じないのでどうだっていいのだが、グエンが余所事に気を取られず、理性を欠いた動物のように快楽に身を委ねているのを見るのは気分が良かった。ついでに恍惚に歪む顔も見たいと、後頭部の髪の毛を鷲掴んで無理矢理に横を向かせると、グエンから非難の声が上がった。

「いてえ、バカ、かみ抜ける……」
「なんで声出さないの?」
「うるさい、欲求不満、黙って動け」
「欲求不満はどっちだよ」

まだ減らず口を叩く余裕が残っているのが腹立たしい。苛立ち紛れに腰を強く押し付けると、喫驚の声とも嬌声ともつかない高い声色で鳴く。そのまま衝動に任せて揺さぶると、グエンは身を守るように上半身を縮こまらせて、震える手で自分の腕を強く掴んだ。まるで暴行に耐えているかのような姿勢だが、鼻から抜ける呼吸はやたらと色めいていて、親に甘える仔猫ですらもう少し遠慮がちに鳴くのではないかと言いたくなる。
グエンの身体は男にしてはずいぶんと柔軟性に富んでいたが、かといって女のように強く抱けば壊れてしまいそうな頼りなさはない。女と比べて好き勝手に動けるし、多少痛がらせたところで罪悪感も薄いし、中の具合も遜色ない。さすがにそれを口にするとまた機嫌を損ねることがわかっていたから黙っているが、男で、受け入れる側で、女と同じような法悦を得られるのは、どちらかというとめずらしいほうなのではないかと思う。

「ねー、グエンって誰とでもこういうことするの?」
「ハァ……?んな、わけ、ねえだろ」
「じゃあ、オレだけ?」
「……男はな」

その返答を聞いたところで、ゼパルのなかには特別な感慨はわかなかった。グエンの言うことが嘘だろうが本音だろうが、相手が男だろうが女だろうが、グエンが誰と寝ていようが、どうでもいい。
でも、なぜか、なにかがずっと、気に食わない。

「……どうした、気持ち、よくない?」

ふと気付くと、グエンの紅潮したうなじのあたりを注視したまま、呼吸ばかり浅くして、茫然としていた。グエンが妙にしおらしい顔をして、こちらを振り返っている。暗闇で、こちらの表情などは見えるはずもないだろうに、じっと息をひそめて気配を探ってくるのが本当に猫みたいだと思った。

「なんだよ、怒ってんのか?」

そう尋ねられて、この渦巻くような感傷が怒りと呼ぶべきものなのかとか、はたして自分はなにかに対して怒れる立場なのかとか、今日起きた出来事のうちいったいどれが琴線に触れたのかとか、足りない頭が鈍い音をたててひとつずつ検討するのを他人事のように感じていた。なにも考えず快感だけを追いかけようとしても、掴むそばから指の間をすり抜けていく。
グエンのせいか、あの女のせいか、あるいは水のようにひとつも酔えもしなかった安酒のせいか、じっとりとブーツに染み込んだ重たい雨のせいだろうか。ひとつひとつを思い返しているうち、白いシーツに、うす黒い染みがこぼれ落ちるのが見えた。
目の端からなにかが滴った。仲間を置いて、なにもかも放り出してあの女について行きたくなってしまった自分が心底、嫌だった。確かにあのとき、自分は、名前も知らない彼女の腕の中で、ただあたたかい場所で、子供のように眠ったまま目が覚めなければどれだけいいかと考えた。そうすればもう、なににも煩わされることもないし、なにかを失うことを恐れなくてもいいし、なにかを得られないことを口惜しがる必要もない。名前も知らない誰かに哀れまれながら惨めに野垂れ死ぬことだけが、唯一の救いのような気がした。

誰でもいいからそばにいてほしいと思う気持ちと、そんなものは必要ないのだと頑なに思う気持ちとを、いつも持て余している。それは、仲間さえいればほかになにもいらないと思いながら、いつまたひとりになっても傷つかずにいるための心の備えをしておくのに似ていた。覚悟は、片時も手放すことのできない命綱のように大事なものだったのに、いつの間にかそれこそが自分の首を絞めているような気がしてならなかった。
それでもなお、こんな自分のためだけの誰かなどを、心底信じられるほどに酔うことができない。諦めのいいふりをするのにも疲れてしまった。止まらない自己嫌悪と、自分以外のなにものかを呪いたくて仕方がないようなやり場のない憤りとで、中毒になったように具合が悪くなってくる。

「……お前って、意外とナイーブだよな」

グエンは意外と無神経だ。買い言葉を返そうとして喉が鳴った。いつだって、身も心もしなやかで均整のとれているグエンのことが、心底羨ましくて仕方ない。
冷たい手で頭を撫でられると少しだけ気分が落ち着いたが、グエンはゼパルを優しく抱きしめてくれるようなことはしなかった。おそらく、彼のすぐ傍で野垂れ死んだところで、哀れまれることもなければ安らかに眠らせてくれるようなこともないだろう。
ただ、呆れ返ったみたいな顔で笑っていた。